どうも、好きなロックバンドは「SID(シド)」である元自衛官・ひだりゅー(@dakahi3776)であります!
今回紹介する86番札所「志度寺(しどじ/しどうじ)」は、高さ33mの「五重塔」が目を引く大きな寺院。
能楽や歌謡で知られる悲運の「海女の玉取伝説」に深く関わっていることでも有名です。
また、「曲水式庭園」や京都にある龍安寺の石庭を思わせる「無染庭」なども要チェックでっせ!
(参拝した日:2015年11月5日)
目次
志度寺の歴史
創建
本寺の縁起によるとその歴史は古く、飛鳥時代の推古天皇33年(625年)まで遡ります。
海洋技能集団・海人族の凡園子(おおしそのこ)が、志度浦にたどり着いた霊木で十一面観音像を彫り、堂宇を建てたのが始まりと言われます。
天武天皇10年(681年)、藤原鎌足の息子である藤原不比等が妻の墓を建立し「志度道場」と命名。
持統天皇7年(693年)、不比等の息子・藤原房前が行基とともに堂宇を拡張、学問の道場として栄えさせ、寺名を「志度寺」に改めたと伝えられています。
海女の墓|藤原親子と海女の玉取伝説
志度寺の境内の一角に「海女の墓」と呼ばれる五輪塔群があります。
この墓には藤原不比等・房前親子にまつわる「海女の玉取伝説」が残されています。
<出典:Wikipedia>
藤原不比等は竜神が奪った宝玉を探すべく「淡海」という偽名を使い、志度の地へと訪れました。
その最中に「玉藻」という名の海女と恋に落ちて、二人の間に男児が生まれました
時が経ち、不比等は玉藻に自分の素姓とこの地へやって来た目的を明かします。
玉藻は宝玉の在り処を突き止めるものの龍神が常に守っているために奪い返せません。
決死の覚悟で奪還を試み、なんとか玉を取り戻しましたが、気付かれた龍神に襲われ、瀕死状態に・・・
玉藻は最後の力を振り絞って、護身用の短刀を自らの乳房下に突き刺して十字に切り裂くと、その中に玉を押し込めて海面にまで辿り着きました。
駆け寄る不比等に宝玉を渡し、残された男児を藤原家の跡取りにと頼むと、玉藻は息を引き取ったのでした・・・
不比等は亡くなった玉藻の遺体を志度寺に葬ると、残された男児を都に連れて帰りました。
男児はその後、「藤原房前」と名付けられ政治の表舞台でその力を存分に振るいました。
ある日、自分の母親の最期を聞いた房前は、母の眠る志度寺に赴いて新たに堂宇を建て、さらに1000基の石塔を建立しました。
これが現在「海女の墓」と呼ばれているのものです。
境内の施設
山門(仁王門)|運慶作の仁王像がお出迎え
江戸時代の寛文10年(1670年)頃、讃岐藩主・松平頼重により寄進された全国的にも珍しい三棟造りの山門。
国の重要文化財に指定されています。
画像左側に写っているのは、後述する五重塔です。
運慶作と伝えられる二体の仁王像とその前に飾られた巨大わらじが参拝者らを「おっ!」と感嘆させます。
本堂|国の重要文化財
仁王門と同時期の寛文10年(1670年)頃、讃岐藩主・松平頼重によって建立されました。
中に収められている本尊・十一面観世菩薩立像、両脇侍の不動明王立像、毘沙門天立像は平安時代の作。
毎年、7月16日と17日午前中、本尊と脇仏の開帳をし堂内を見学できるそうです。
なお、本尊・本堂共に国の重要文化財に指定されています。
大師堂
本堂を正面に見て右側に大師堂が建っています。
毎月17日~21日の9:00~15:00の間は、五重塔、閻魔堂と共に内部を拝観出来るそうです。
五重塔|高さ33m。88ヶ所でも4つしかないレア施設。
昭和50年(1975年)に完成した高さ33mの朱色の塔で、地元出身の実業家「竹野二郎」によって寄進されました。
四国八十八ヶ寺の中で、五重塔があるのは31番竹林寺、70番本山寺、75番善通寺、そしてここ志度寺の4ヶ所だけ!
毎月17日~21日の9:00~15:00の間は、特別に塔の内部を見学できます。
志度寺庭園(曲水式庭園)
「曲水式庭園」は室町時代の細川一族によって作庭された回遊式池水庭園で、昭和36年(1961年)に重森三玲によって復元されました。
僕が行ったタイミングが悪かったのか水が張っていませんでした・・・
四国八十八ヶ所霊場公式ホームページには水が溜まっている時の写真が載っているので、どうやらタイミングが悪かったっぽいですね・・・
残念!
志度寺庭園(無染庭)
曲水式庭園に隣接する庭園。
京都の龍安寺を思わせる枯山水で、昭和37年(1962年)に重森三玲によって作庭されました。
龍安寺と違い観光客も少ないので、ゆっくりと鑑賞出来るのはグッド!
拝観無料ですので、ぜひ立ち寄ってみて下さい。
天才発明家「平賀源内」の墓所
<出典:Wikipedia>
志渡寺へ参拝時に一緒に立ち寄って欲しいのが、江戸時代に活躍した発明家「平賀源内」のお墓であります。
彼の遺骨は、浅草橋場(現東京都台東区橋場)にあった総泉寺の墓に納められ、総泉寺が板橋に移転した後も墓所はそのまま橋場の旧地に残されています。
じゃあこのお墓は何だと言うと、平賀家を継承した義弟・平賀権太夫が一族や旧知の人々の手で源内を弔うために建てたものだそうです(諸説あり)。
志度は平賀源内の故郷で、近くに彼の記念館があります。
余談ですが、うなぎを食べる「土用丑の日」は源内発祥のアイデアなんだとか。ほぇ~
志度寺へのアクセス
〒769-2101
香川県さぬき市志度1102
その他情報
寺名 | 補陀洛山 志度寺 |
宗派 | 真言宗 |
本尊 | 十一面観世音菩薩 |
創建 | 推古33年(625年) |
開祖 | 藤原不比等 |
真言 | おん まか きゃろにきゃ そわか |
ご詠歌 | いざさらば 今宵はここに しどの寺 祈りの声を 耳に触れつつ |
駐車場 | 2ヶ所・無料50台 |
宿坊 | なし |
電話 | 087-894-0086 |
前後の札所
85 八栗寺 -- (6.5km)-- 86 志度寺 -- (7.0km)-- 87 長尾寺
by.元自衛官@ひだりゅー
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