どうも、歩く呪怨製造機こと元自衛官ひだりゅー(@dakahi3776)です。
今回紹介する79番札所「天皇寺(てんのうじ)」は、日本三大怨霊の一人とされる崇徳天皇にまつわる四国トップクラスの心霊スポットとして知られています。
崇徳天皇の死後、天皇家の子孫繁栄に関わる人物が次々と死亡し、100年に一度クラスの天災や動乱が多々発生しました。
現代では、大泉洋の番組「水曜どうでしょう」でも、機材トラブルが発生したことも!?
そんな天皇寺は地元民から「四国の〇〇神」と呼ばれていたり・・・
天皇寺と崇徳天皇の真相が気になる方は、ぜひオチまで読んでみて下さい。
※背景画像は「ぱくたそフリー写真素材」様より
(参拝した日:2015年10月29日)
目次
天皇寺高照院の歴史
寺伝によると、奈良時代の天平年間(729年~749年)、行基がカナヤマビメカナヤマビコが鎮座される金山に薬師如来を本尊とした堂宇を開創したのが始まりとされています。
平安時代の弘仁年間(810〜824年)、弘法大師が霊泉「八十場の泉」を訪れたとき、金山を鎮守する金山権現が子どもの姿で現れ、持っていた宝珠を大師に預けました。
大師はこの宝珠を嶺に埋めて仏法を守護し、八十場の霊域にあった霊木で本尊・十一面観世音菩薩をはじめ、脇侍として阿弥陀如来、愛染明王の三尊像を彫造し、荒廃していた堂舎を再興。
この本尊の霊験が物凄かったらしく、その後境内は僧坊を二十余宇も構えるほど隆盛し、摩尼珠院妙成就寺(まにしゅいん みょうじょうじゅじ)と称していました。
明治初年の神仏分離令によって摩尼珠院は廃寺となり、その後明治20年に筆頭末寺の高照院が当地に移り、金華山高照院天皇寺として七十九番札所を引き継ぎました。
天皇寺と崇徳天皇怨念伝説
平安末期の保元元年(1156年)7月、崇徳上皇は「保元の乱」に敗れ、讃岐国へ事実上の流刑の憂き目にあった。
保元の乱の顛末を描いた軍記物語『保元物語』によると、崇徳天皇は朝廷の自分に対する扱いにひどく腹を立て、舌を噛み切って自分が書いた写本に日本に対する呪いの言葉を血で書き込みました。
その後、崩御するまで爪や髪は伸ばしたままで夜叉のような姿になり、生きながら天狗になったとされています。
崇徳天皇の死後から12年経った安元2年(1176年)、崇徳天皇の宿敵であった後白河天皇に近い人々が相次いで死去。
さらに翌年の安元3年(1177年)、延暦寺の強訴、安元の大火、鹿ケ谷の陰謀が立て続けに起こり、社会の安定が崩れ長く続く動乱の始まりとなり、いよいよ朝廷では崇徳天皇の怨念が意識され始めました。
この騒動で精神的に追い詰められた後白河院は怨霊鎮魂のため保元の宣命を破却し、こうして正式に崇徳天皇は朝廷から赦されることになったのです。
こうして怨霊としての崇徳天皇のイメージは定着し、近世の文学作品である「雨月物語」などにおいても怨霊として描かれ、現代においても様々な作品において怨霊のモチーフとして使われることが多々あります。
水曜どうでしょうの霊障トラブル
大泉洋のテレビ番組「水曜どうでしょう」で四国八十八ヶ所巡り中をやっていたときのこと。
ここ79番札所「天皇寺」の本堂前での撮影中、それまで全く問題が無かったはずの撮影機材が異常な音を立て勝手に止まってしまいます。
念のため、車内に戻り巻き戻してみるも今撮った映像が全く無い。
仕方ないので、車内でカメラのチェックをした後、鳥居の前で再度撮影を行うと・・・↓
カメラを寺に向けた途端、激しく映像が乱れ、音声もほとんど記録されていなかったのです・・・
彼らはなんとか撮影を終え、逃げるように車に戻り、だんだんと寺を離れたのですが、ここでまたトラブルが。
春先の夜はまだ寒く、車内のエアコンは暖房にしていたのですが、なぜか冷風しか出なくなってしまったのです。
「故障だね・・・」
「・・・・そうだね」
この異常事態に、スタッフらはそう言い続けるしかありませんでした。
また一説には、実は本堂前で撮影した映像も本当は残っているが、世に出すにはあまりにもヤバすぎてお蔵入りしてしまったなんていう話も。
というのも、そのビデオには大泉さんとその足元にまとわりつくように動く大量の白い手が映り込んでいたのだとか。
そう・・・まるで大泉洋を地獄へと誘うように・・・
というわけで、実際に参拝してみた
ヤバい噂ばかりを聞いて、正直参拝するのは気が滅入ったのですが、かと言って79番札所だけスルーするのも我慢ならない。
そんなこんなで、怯える自分に喝を入れながら、私は恐る恐る、まるでアフリカの大河をワニを恐れて渡るインパラの気分で境内に到着しました。
まず、真っ先に目に入ったもの・・・それは↓
26年の人生で見たこともない奇妙な鳥居の姿でした。
これは「三輪鳥居」といって、普通の明神鳥居の左右にやや小さい脇鳥居を組み合わせた珍しい鳥居なんです。
どれぐらい珍しいかと言えば、この形式の鳥居はなんと全国で3ヶ所にしかないのだとか・・・超激レアやんけ!
鳥居の正面奥に写る建物は崇徳天皇を祀る「白峰宮」で、手前を左に行くと天皇寺の本堂と大師堂が建っています。
三輪鳥居を潜り抜け、まずは本堂に参拝。
そんなに大きくないお堂で、特に物珍しいものは見つけられませんでした。
至って普通。呪いの「の」の字も感じることが出来ません。
続いて大師堂を参拝。
こちらもこじんまりとした至って一般的なお堂でした。
・・・境内は全体的に平和な雰囲気だったので、参拝前に身構えた分いささか興醒めしてしまいましたわ。
納経所で聞いた意外な事実
「ここ天皇寺は心霊スポットだと聞いたことがあるのですが、本当なんですか?」
本堂と大師堂の参拝を終え、納経所へ向かい納経してもらった際、私は寺の方に一つの疑問を投げかけた。
すると、納経所の方はこの不躾な質問に気を害すること無く、私にこんな話を聞かせてくれた。
納「はい、確かにここは崇徳天皇の怨霊が居るとされ、テレビでも報道されたこともあります。ただ、それは半分間違っています。」
私「半分?どういうことでしょうか?」
納「崇徳天皇はここに鎮座しておりますが、その正体は怨霊ではなく四国全体の守り神となっているんですよ。」
私「守り神ですか?」
納「はい。私を始め、地元の人間はそういう風に考えています。」
この話を聞いた時は「怨霊が守り神?」って感じでいまいちピンと来なかったのですが、後ほど調べてみるとこんな出来事もあったそうです。
室町時代の守護大名、細川頼之が四国の守護となった際に崇徳天皇の菩提を弔ってから四国平定に乗り出して成功しました。
以後、崇徳天皇は細川氏代々の守護神として崇敬されたと言われています。
また、平安末期の歴史書「今鏡」にはこんな記述も残されています。
一方『今鏡』「すべらぎの中第二 八重の潮路」では、「憂き世のあまりにや、御病ひも年に添へて重らせ給ひければ」と寂しい生活の中で悲しさの余り、病気も年々重くなっていったとは記されているものの、自らを配流した者への怒りや恨みといった話はない。また配流先で崇徳院が実際に詠んだ「思ひやれ 都はるかに おきつ波 立ちへだてたる こころぼそさを」(『風雅和歌集』)という歌を見ても、悲嘆の感情はうかがえても怨念を抱いていた様子はない。
つまり、納経所の方の話とこれらの歴史から紐解くに、地元民からすれば天皇寺は怨霊が居る心霊スポットなどではなく、守り神が座する神聖な霊場であると考えられます。
天皇寺へのアクセス
〒762-0021
香川県坂出市西庄町天皇1713-2
その他情報
寺名 | 金華山 高照院 天皇寺 |
宗派 | 真言宗御室派 |
本尊 | 十一面観世音菩薩 |
創建 | 天平年間(729〜749年) |
開祖 | 弘法大師 |
真言 | おんまか きゃろにきゃ そわか |
ご詠歌 | 十楽の 浮世の中を たづぬべし 天皇さへも さすらひぞある |
駐車場 | 普通、マイクロバスは境内の東。 大型は県道33号沿線を利用している |
宿坊 | なし |
電話 | 0877-46-3508 |
前後の札所
78 郷照寺 -- (5.9km)-- 79 天皇寺 -- (6.6km)-- 80 国分寺
by.ひだりゅー
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