どうも、ひだりゅーです。
皆さんは「底抜け柄杓」にどのようなイメージがありますか?
恐らくは大部分の方が、また海上で船幽霊に出会って
「ひしゃくをくれぇ・・・」
と言われた時に、自分らの船が沈められないようにわざと底が抜けた柄杓を与えるアノ怪談を思いつくことでしょう。
ここ、34番札所種間寺(たねまじ)ではその限りではなく、なんと安産祈願のご利益が得られるのだとか!?
というわけで、今回はそんな種間寺について書いていきたいかと思います。
(参拝した日:2015年10月11日)
目次
種間寺の歴史
寺伝によれば、その歴史はかなり古く飛鳥時代まで遡ります。
用明天皇(在位585〜587年)の時代、大阪・四天王寺を建立するため来日した百済の仏師や造寺工が、帰国の際に土佐沖で暴風に襲われて、種間寺が建つ本尾山に近い秋山の港に漂着します。
彼らは海上の安全を祈って約145cmの薬師如来坐像を彫造し、本尾山の山頂に祀ったのが起源であります。
唐から帰朝した弘法大師がこの地を訪ねたのは、200年以上経過した弘仁年間(810年 - 824年)のこと。
大師は、百済の仏師が彫った薬師如来像を本尊として安置し、諸堂を建てて開創しました。
その折に唐から持ち帰った五穀(米、麦、あわ、きび、豆またはひえ)の種子を境内に蒔いたことから、種間寺と名付けられました。
名は体を表すのか、名付けられてから1200年以上経った現在でも種間寺周辺はだだっ広い田園地帯なのが印象的でした。
天暦年間(947〜957年)には、村上天皇が藤原信家を勅使にして「種間」の勅額を下賜されました。
その後、江戸時代に入ってからも土佐藩主の山内公からの加護が厚く、広大な田畑や山林を寄贈されており、堂舎の修築も行われていたそうです。
明治時代に入り、神仏分離令で一時廃寺となってしまいますが、明治13年(1880年)に再興されました。
境内の施設
本堂
コンクリート作り。
国指定重要文化財である本尊の薬師如来像は毎年3月8日に開帳されます。
本堂内には、身丈100cm、俵の台座部分を含めると150cmの木像「さわり大黒」が安置されていました。
その名前の通り参拝者が触れることが可能でして、現住職の「お遍路さんや参拝の方々に触って頂き、色艶が出る方がよい」との想いから、あえて彩色はしていないそうです。
小槌の紋「抱き稲に種」は、さわり大黒のために作成された種間寺オリジナルのもの!
皆さんも参拝時には、ぜひ触れてみてください!
大師堂
やばい・・・書くことがないwww
子安観音|底抜け柄杓と安産祈願
このお堂というか、鐘楼っぽい建物が種間寺名物「子安観音堂」であります。
底抜け柄杓が安産の祈願に奉納されるのは、「よく抜けるように」生まれて欲しい。
つまり「難産にならないように」との願いが込められているんですって!
妊婦が柄杓をもって詣ると、寺では底を抜いて二夜三日の安産祈祷をし、お札を添えて返します。
観音像の周りの柄杓は、無事に安産したということで種間寺に納められたものです。
もしかしたら、お堂に壁が無いのもこの底抜け柄杓にあやかったものなのかもしれませんね。
おまけ
T-ウィルスによってゾンビ化した案内坊主
T(Tanema)ウィルスの汚染によって、生きる屍「ゾンビ」と化した案内坊主くん(10歳)
彼が指し示す方向は、果たして本当に納経所なのだろうか・・・?
101歳の寿柄杓
四国霊場の手洗い所(水屋)では、奉納者の名前が書かれている柄杓をよく見かけます。
ここ、種間寺ではなんと101歳のおばあちゃんが奉納した柄杓が置いてありました!
いやはや、これからも彼女には長生きしてほしいものですねぇ~
種間寺へのアクセス
〒781-0321
高知県高知市春野町秋山72
その他情報
寺名 | 本尾山 朱雀院 種間寺 |
宗派 | 真言宗豊山派 |
本尊 | 薬師如来 |
創建 | 弘仁年間(810〜824) |
開祖 | 弘法大師 |
真言 | おん ころころ せんだりまとうぎ そわか |
ご詠歌 | 世の中に 蒔ける五穀の 種間寺 深き如来の 大悲なりけり |
駐車場 | 普通70台・大型5台 終日・無料 |
宿坊 | なし |
電話 | 088-894-2234 |
前後の札所
33 雪蹊寺 -- (6.3km)-- 34 種間寺 -- (9.8km)-- 35 清瀧寺
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