岐阜県

関ヶ原|ドリフターズの島津豊久でお馴染み!天下分け目の戦場跡。

2016/10/31

どうも、ひだりゅーです。

今回は、徳川家康率いる「東軍」と石田三成が中心となった「西軍」が天下の覇権を賭けて闘った岐阜県不破郡関ケ原町にある「関ヶ原古戦場跡」のレビュー記事となります。

月刊漫画雑誌「ヤングキングアワーズ」に2009年6月号から連載され、2016年10月よりアニメ化もされている「ドリフターズ」の主人公「島津豊久」が異世界へと飛ばされた場所でもあります。

なお、記事作成にあたって思いの外、前情報である「史実としての関ヶ原」の項目が長くなってしまいましたので、歴史に興味のない方は下のインデックスから「実際に関が原に行ってみた」まで飛んでみてください。

★観光した日

→2013‎年‎4‎月‎18‎日(日本一周旅行中)

→‎2014‎年‎7‎月‎22‎日(名古屋在住中)

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史実としての関が原

五大老と五奉行

秀吉の死後に豊臣家で日本を運営することになったのは、「豊臣五大老」と「豊臣五奉行」と呼ばれる人たちでした。

「五大老」は、各地の有力な大名によって構成された「権力者の代表」

「五奉行」は、豊臣家の中で実際に政務を取り仕切っていた「豊臣家の上層部」であります。

関が原の合戦でもっとも主要な人物となったのが、それぞれの筆頭である「徳川家康」と「石田三成」です。

武断派と文治派(官僚派)

1598年に豊臣秀吉が死ぬと、徳川家康が各地の大名や家臣への「婚姻(結婚)の斡旋」や「知行(領地)の授与」などを、五奉行などに相談することなく独断で行うようになります。

もちろんこの行動に五奉行の筆頭である石田三成は、家康を非難します。

しかし石田三成は、かなりの嫌われ者でした。

というのも、彼によって失敗や罪状を秀吉に報告され、処罰を受けた人が多くいたのです。

おまけに「官僚(政治家)」ですから、本人が合戦で戦って傷つくこともありません。

こうした背景もあり、豊臣秀吉が生きている頃から豊臣家の内部では合戦で戦っている「武断派」政治を行う「文治派」の間で内部対立が発生していました。

しかし、それがすぐにトラブルに発展してしまうことはありませんでした。

なぜならば、豊臣五大老のNO.2であった「前田利家」が仲裁役となって、双方の激突を緩和させていたからです。

石田三成襲撃事件

が、秀吉の死去の翌年1599年3月、前田利家も死去してしまいます。

仲裁役を失ったその直後に三成と対立関係にあった武断派の加藤清正、福島正則、黒田長政、細川忠興、浅野幸長、池田輝政、加藤嘉明の七将が、三成の大坂屋敷を襲撃する事件(石田三成襲撃事件)が発生しました。

しかし三成は事前に大坂から脱出して京都の伏見城内へと逃れており、七将と三成は伏見で睨みあう状況となりましたが、仲裁に乗り出した家康により和解が成立します。

一件落着と思いきや、この事件が起こった事で石田三成は謹慎処分となり一時的に失脚、かたや事件を解決させた徳川家康の影響力はさらに大きくなりました。

結果的にこの事件で「武断派」と「文治派」の分裂はもはや修復不可能なほどに決定的となってしまったのです。

直江状。そして、関が原の合戦へ

年が明けた1600年6月、直江兼続が徳川家に叩きつけた挑戦状「直江状」に激高した家康は上杉家を討伐するべく大軍を率いて大阪城を出発します。

これを機に三成は、打倒徳川のために五大老である「毛利輝元」を総大将として軍勢を招集。

大阪城にいる東軍の武将の家族を人質に取った後、徳川軍の駐留部隊がいる京都の城「伏見城」を総攻撃します。

家康は京都での戦いの報告を受けて「小山評定」と呼ばれる会議を行い、上杉家に進軍中の徳川軍はそのまま大阪方面に戻って、石田三成軍と戦うことが決定されました。

この時点で石田三成の西軍徳川家康の東軍という、関ヶ原の戦いの2大陣営が決定付けられます。

そして、紆余曲折を経てこの2つの巨大な軍勢は、慶長5年9月15日(西暦1600年10月21日)関ヶ原の地で相見えることとなります。

小早川秀秋の裏切り。そして、新時代へ

合戦も序盤は、陣取りで有利だった西軍が優勢でありました。

が、西軍に従軍していた「小早川秀秋」によって戦局は大きく変わります。

秀秋は元々豊臣秀吉の養子であり、立場的にも当然西軍に付くべき人物なのですが、実は大の三成嫌いでした。

と言うのも、朝鮮出兵の時の彼の失態を石田三成が豊臣秀吉に詳細に報告し、彼は秀吉におもいっきり怒られたあげく、領地も没収されていたからです。

しかもそのあと、彼と秀吉の仲を取り持ってくれたのは他ならぬ徳川家康でした。

そのため彼はどっちに付くべきか悩んだまま、この「関ヶ原」の日を迎えていたのです。

その様子を見ていてついに痺れを切らした徳川家康は、ここで「賭け」に出ます。

なんと小早川秀秋の部隊に鉄砲隊を向け、一斉射撃したのです!

秀秋は「家康が怒っている!」と思い、1万以上の軍勢を率いて東軍に寝返ります。(この鉄砲の話は創作だと言う説も)

これがきっかけで西軍の陣形は崩され、関ヶ原の戦いの勝敗はほぼ決定しました。

実際に関ヶ原へ行ってみた

前置きが長くなりましたが、ここからは実際に僕が関が原に行った時の様子をレポートします。

水田

暖かくなったばかりの4月の小春日和のある日。

山に囲まれた田園風景が広がる岐阜県関ヶ原町。

古戦場の石碑

そんなのどかな場所に「関ヶ原古戦場」の石碑が建っていました。

関ヶ原の水田

400年前、ここで本当に天下分け目の戦いがあったのかどうかが疑わしくなってくるくらい、周辺はとてもほのぼのしています。

笹尾山

石碑から少し歩くと、石田三成が陣取った「笹尾山」がありました。

ここには砂利敷の無料駐車場があります。

写真中央付近の階段を登ると山頂に展望台があり、そこからは関ヶ原を一望出来る様になっていました。

古の武士たちもここから合戦の様子を眺めていたと考えると、なんだかロマンがありますね。

島津義弘布陣跡

笹尾山無料駐車場から徒歩7分、南へ約500m進むと「島津義久陣跡」があります。

ここは、あの大人気漫画「ドリフターズ」の主人公「島津豊久」が陣取った場所でもあります。

島津豊久

彼は、関ヶ原での西軍の敗走が決まった後、島津軍大将で叔父でもある島津義久を無事に撤退させるために、追手を食い止めるべく殿を務めます。

追撃してきた東軍の井伊直政隊との戦闘で、無数の槍に刺されながらも気迫で井伊直政隊を撤退させることに成功。

その後、瀕死状態で故郷である島津へ帰るために戦場を1人彷徨っている最中、不思議な眼鏡の男により異世界へ送られて・・・

ドリフターズ出典:アニメ動画情報ホーム

続きは、漫画かアニメで確認してください(テヘッ♪)

なお、史実の島津義久は少年時代、比べるものがないほど姿が美しいのみならず、知勇も抜きんでいたと記されています。

あれ?なんか与一っぽいポジションじゃね?

アクセス

個人的評価

 

★★

(Cランク・ちょっとしたスポット)

 

以下評価理由

・歴史的な土地

・石碑や陣の跡以外は、のどかな田舎の風景

ガイドさんがいたり、歴史の知識があれば、また充実度が変わるスポットだと思われます。

終わりに

以上が、天下分け目の合戦の跡「関ヶ原古戦場跡」の観光レビュー記事となります。

まあ、この記事を通して何が言いたいかというと、

 

ドリフターズ、マジ面白いから見てください!

 

の一言に尽きます。

ちなみに僕は原作漫画をすでに20回以上読み返しています(週刊実話)

関連ページ

アニメ「ドリフターズ」公式サイト

→平野耕太先生、いつも応援しています!

(わかりやすい)関ヶ原の戦い

→参考になりました。ありがとうございます。

 

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